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人間を再発見する読書 近藤 重弘(工学部事務室) 創価大学への進学を前にした高校3年の秋、第11回創大祭で創立者は、『歴史と人物を考察-迫害と人生を語る』と題する記念講演をしてくださいました。その際、オーストリアの優れた伝記作家ツヴァイクの次の言葉を紹介されています。 「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪をうたったものがいるだろうか? ――自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生の全てを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人はその全突進力があたえられるのだ」(『ジョセフ・フーシェ』山下肇訳) この時から、今まで耳にしたことのなかったツヴァイクという作家のことが気になり始めていました。とはいうものの、大学に入学して読んだ本の多くは、先輩方から薦められたものでした。今でも印象深く記憶に残ってるのは、大塚久雄『社会科学の方法』、『社会科学における人間』、内田義彦『社会認識の歩み』、マックス・ウエーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』、V.E.フランクル『夜と霧』、辻邦生『背教者ユリアヌス』、加藤周一・木下順二・丸山真男・武田清子編『日本文化のかくれた形』、加藤周一『羊の歌-わが回想』と、いうものです。ご覧のとおり、決して系統だってはいませんね。 高学年になってからだと思いますが、丸山真男『戦中と戦後の間』を購入しました。そのなかに「勉学についての2、3の助言」が収められています。歴史の学び方について、丸山真男は、「第1に方法論にとらわれずに対象そのものに付け」と主張し、「歴史の中の人間の動きを注目することによって、それだけ、現実の人間を深く立体的に観察する眼が養われるのですが、逆にまた、現実の人間を見る眼が肥えているだけ、それだけ錯雑した歴史過程のなかに躍動する人間像を浮かびあがらせる力も生まれてくるわけです」と、人間観察力を磨くことの重要性に触れ、「そういう意味で、せまい意味の歴史書を読むだけでなく、ジョン・モーレーとかエミール・ルートヴィッヒとかシュテファン・ツヴァイクとかエドウァード・カーとかいったすぐれた伝記作家のものを読むことが歴史の勉強、ひいては、社会科学一般の勉強にも非常に大事なことです。歴史を学ぶということは、要するにたえず人間を再発見してゆくということにほかなりません」と述べています。 史観を磨くためにも、人間を観る眼を養うためにも、優れた伝記作家の作品を読むことの有効性、そして、創立者が『歴史と人物を考察』と題する講演の導入部で、ツヴァイクを引用された意味に気づかされたわけでした。そこで、入学以来気になっていた、ツヴァイクの作品の1つ『マリー・アントワネット』を手に取ることに繋がっていきました。同じく『戦中と戦後の間』の中に、「歴史と伝記」という作品があり、これは大学教員のところに、彼の甥の大学2年生が、高校3年生の妹と一緒に「歴史的認識とは何か」という妹に課せられた学校のレポート課題に取り組むために相談にきた設定になっています。『マリー・アントワネット』をめぐって「フランス革命をバックにしているものでも、個人の心理過程を歴史的シチュエーションから抜き出して追究しているために、一見人間関係の非常に具体的な絡み合いを捉えようとして、かえって人間性を抽象的に類型化する結果に陥っているような気がするんです」という批判的な意見に対し、大学教員の叔父が「優れた伝記作家のものはむろんフィクションの形をとっているが、専門の歴史家に劣らぬ史料の考証を基礎にして書かれている。だから少なくとも事件のエレメンタリーな継起についてはまず信用していい。ただし-これが大事な点だが-事件や人物について解釈したり批評したりしたところは決してそのまま盲従しちゃいけない。」とアドバイスする箇所など、傾聴すべきことが随所に散りばめられています。 創立者の講演で興味をもったツヴァイクに結びつけてくれたきっかけの1冊として、『戦中と戦後の間』をとりあげることになりました。経済、経営、法、教育学部といった社会科学分野の学生の皆さんで、「何を読んだらいいか分からない」という方は、とりあえず優れた伝記作家の作品に挑戦されてはいかがでしょうか。 |
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