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生涯1万冊 金子 朗(東京富士美術館) 小学校高学年の時、巧みな話術で歴史上の偉人の話をしてくれた校長(名前は失念してしまったが)がいた。ある時、朝礼で吉田松陰を紹介してくれた。吉田松陰が29歳で亡くなるまでに1万冊の本を読了したこと、辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」を紹介してくれた。校長は続けて「皆さん、一生の間に1万冊読もう、今から始めると必ず出来るから挑戦しよう。先生も小学生の時から挑戦している。」と。教室に戻り1万冊を吉田松陰の生涯29年間で割り算し、年間344冊。1万冊読むためには、一日一冊以上という計算結果。大変驚いたことを、40年以上経った今でも鮮明に記憶している。 高校1年の春、司馬遼太郎著「世に棲む日日」に出会った。吉田松陰と、その弟子高杉晋作の生涯は鮮烈であった。小学校時代の校長が語ってくれた吉田松陰の姿が、鮮やかに蘇った。幕末動乱期、明治維新の精神的支柱となる松陰の生き方に、身が震えた。それがきっかけとなり、司馬遼の歴史小説の世界にはまっていった。次に「竜馬が行く」を、そして全集を読みふけった。高校の授業中、読書に夢中になり担任から叱責を受けたのもこの頃だった。通学した3年間、片道80分・往復160分の電車の中は、格好の図書館であった。高校時代年間300冊以上読破した年もあった。 司馬遼太郎の世界から、次ぎは吉川英治に、そして山本周五郎へと。周五郎の作品を夜明けまでよく読んだものだ。歴史小説の一人の英雄の生き方よりも、名もなき庶民、江戸時代の庶民のひたむきな生き方に共感を覚えた。周五郎の描く「人情」の世界。ある調査で「情けは人の為ならず」の意味を「他人に情けをかけることは、その人の為にならない。だから他人に情けをかけてはいけない。」と本来の意味と全く正反対の意味を真顔で答える現代人が、半数を超える事実。昨今、失われつつある「人情」。さらに「人情」の世界を追い求め、池波正太郎の作品に夢中になった。 「鬼平犯科帳」「剣客商売」ただひたすら読みふけった。「鬼平犯科帳」に登場する「鬼の平蔵」こと長谷川平蔵、同心木村忠吾は色白でぽっちゃりしており、皆から「兎忠(うさちゅう)」と呼ばれている。酒と女と情に弱く、失敗もするが、憎めない。「鬼平犯科帳」第24巻「誘拐」は、その執筆途中で筆者が逝去したため絶筆となった。本当に残念である。「誘拐」の結末はどうなるのか、本当に気になる。しかしその結末は永遠にわからない。今も読み返す機会は多い。 大学3年の夏、約1ヶ月間幸運にも、創立者が聖教新聞社に寄贈された蔵書整理のアルバイトをさせていただく機会に恵まれた。膨大な蔵書を数人で一冊一冊拝見し、整理させていただいた。貴重な蔵書を開くと、創立者の読書の世界が広がっていった。蔵書の多くには必ずと言っていいほど赤線が引かれていたり、「何年何月読了」・「何回目読了」などの書き込みがされていた。創立者が青春時代「戸田大学」で学んでいたこと、恩師戸田先生から常に今読んでいる本を聞かれるなど、様々な機会に創立者から紹介していただいているが、その師弟の歴史の一端に触れさせていただくことが出来た。心から感謝するとともに、創立者の読書量に圧倒された大学3年の夏であった。 大学卒業後は、学生時代に比べ読書する時間は少なくなってしまったが、関心を持った作家の本は、徹して読むように心がけてきた。ある時は東野圭吾、そして高杉良からクライブカッスラー、ジェフリー・アーチャー。そして立花隆。昨年読んだ立花隆著の「天皇と東大」の文中に、大学時代のゼミの恩師の東大在学中のエピソードが記述されている箇所があり、大変感動した。 小学校の校長の触発から40年、創立者の読書量に圧倒されてから30年が経過した。昨年末から新年にかけて浅田次郎の「中原の虹」を読了した。まだ「生涯1万冊」への道のりは遠い。吉田松陰には遠く及ばない。 |
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