文学の「読み方」についての一考察

 

中村 顕一郎(博士後期課程教育学専攻2年)

 

「夏休みと読書」というテーマを与えられたのですが、「夏休み」の時間を利用し、集中して本をたくさん読んだ記憶もなく、何を書いたらいいのか正直困っていました。参考になる本はないかなと思い書棚を見渡すと、『世界文学をどう読むか』(『世界教養全集13』石丸静雄訳、平凡社)というヘルマン・ヘッセの本が目にとまりました。夏休みに読書をする前に「文学はどう読むものなのか」と考えるのも悪くないと思い、早速その本を開いてみました。

 

 ヘッセは、生活を充実させて幸福をつかむために、さらには過去を振り返りその反省の上に未来に進むべき道を決定していくために、「教養」が必要であると述べています。そしてこの「教養」を身につけるための最も重要な道の一つが、「世界文学の研究」であると言います。

もちろん私もヘッセの意見には賛成です。それでも、「世界文学の研究」というと堅苦しいし、世の中には数え切れないほどの作品があるので、とてもじゃないけれど全て読みきることはできません。私のように、こう思ってしまう読者がいると知ってか知らずか、ヘッセは次のように続けています。「この道は、どこまでも続いている。だれも終点まで行き着くことはできない(中略)全文学を完全に研究しつくし、それに精通するなどということは、だれにもできないであろう」(389頁)。

 

 たんに多くの文学作品を読むことだけが問題ではない、とヘッセは考えているようです(もちろん、たくさん読むことを否定しているのではありません)。そうではなくて、読む本の量は少なくてもよいから、自分の興味ある内容を取り扱った作品を読むことを強調しています。さらに大切なのは、自分の抱えている問題と文学作品の内容とを重ね合わせて、自分の精神の世界を豊かにしていくことだとヘッセは言います。自分が直面している問題を扱っている本と出会い、その内容に同化しながら、自分のものの見方や考え方を変えていくことが文学を読む意味なのだろうか、と私は思いました。

 

 そう考えてみると、私も自分の内面が揺さぶられるような本と出会ったことがありました。それはやはりヘッセの本で、『デミアン』(高橋健二訳、新潮文庫)でした。『デミアン』は、第一次世界大戦時に精神的な危機を経験したヘッセが、ほとんどひきこもりのようになり、自分とはいったい何ものなのだろうと突き詰めて、数か月で書き上げた問題作といわれています。その時の私は、自分は何をすべきなのだろうか、どう生きていったらいいのだろうかと悩んで、ろくに睡眠も取れない気持ちに毎日さいなまれていました。私は偶然この本と出会い、僭越ながら、『デミアン』の内容が自分に重なるように思えました。ヘッセはこう述べています。「各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。(中略)自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。」(168頁)誰かに順応するのでもなく、誰かが語った理想を追い求めるのでもなく、自分自身へ達することこそが人間の天職なのだとの内容に共感した私は、この作品を何度も読み返しました。

 

ヘッセが最終的に行き着いたのは、「自分自身に達する道」を見いだし、たえず探求し続けていくという試みでした。文学作品を読むということは、たんに本の内容を受け入れるだけの作業ではないということを、私はヘッセから教わった気がします。自分の人生に深く関係する作品と出会い、その作品に自分を重ね合わせつつ、自分自身の生き方を作り上げたり、修正したり、加工したりすることが、本を読む面白さではないでしょうか。

私はこの夏休み、自分の生き方を変えてくれる新たな一書を求めて、図書館(及び古本屋さん)に通い続けようと思っています。