読書と「対話」
寺西 宏友(経済学部教授)
私が創価大学に入学したのは、1974年で、未だ正門も図書館もなかった時代でした。とにかく創価大学をとりまく環境は不便で、八王子の街に行くのも一大決心が要るような状況でしたが、今の忙しい学生生活よりは、時間に恵まれていたように思います。そうした中で、読書は大きな楽しみで、特に自分が読んで感動した本を人にも薦めて、感想を聞くと言うようなことをしていました。
自分の記憶では、そうした本の中で、一番考えさせられ、人の意見を聞きたいと思った本は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の2冊でした。ウェーバーの方は、1年次の経済学部の必修授業であった「一般経済史」の中で紹介され、読みました。資本主義という社会を作り出した時代精神の淵源を、プロテスタンティズムの「禁欲主義」に求めたウェーバーの同書を読んだとき、素直に「ああこれが、アカデミックというんだな」と感動しました。同時に、思想・信仰というものが社会に与えるインパクトの大きさを考えさせられました。
一方、「カラマーゾフの兄弟」は、夏休みの時間のある時に、推理小説を読むような気持ちで読みましたが、第5編「プロとコントラ」の中の「大審問官」と言う章にさしかかったところで、随分考え込まされました。3兄弟の中の次男で無神論者のイワンが、劇中劇として、純粋な信仰を貫く三男のアリョーシャに語った物語です。中世カトリック教会の権威を象徴する大審問官が、イエスの復活と思しき人物を前に独白を続け、教会制度にとって、イエスの復活は迷惑だと断じるという衝撃的な内容でした。思想・信仰というものの永続性について、言い換えれば、時代とともに変遷を余儀なくされる側面というものを考えさせられました。
両書とも、簡単に読めるものではありませんので、「カラマーゾフの兄弟」の方は、「大審問官」の章だけ抜粋して、ウェーバーの方は、訳者の大塚久雄さんの「社会科学の方法」でウェーバーの方法論に言及しているところを友人に薦めました。自分が読んで感じたことを人に伝え、他の人はどう読むのか、考えるのかを知りたくてたまらなくなったのを思い出します。今思えば、そうした「対話」こそが、大学と言う場での学問の出発点なのでは、と言う気がします。今もゼミでは、自分の独断で、これはと思った本を学生に薦め、意見を述べ合うと言うスタイルをとっています。多くの学生の間で交わされる会話が、「この間こんな本を読んだんだけど」という切り出しで、始まるようなキャンパスになると素敵だなと思っています。