読書の秋・文学賞の秋

鈴江 璋子(大学院英文学研究科客員教授)

読書の秋は電話から来る。

「XX新聞ですが、鈴江先生、今年のノーベル文学賞は・・・」

もちろん私が貰えるという話ではない。研究分野が現代アメリカ文学であるために、たくさんの有力候補者中のだれそれが指名されたら、コメントを書いてほしいという依頼なのだ。ここ数年の情勢では、アメリカの、ことに白人男性から受賞者が出ることは考えられなかったのだが、候補者たちも高年齢になって来た現在、そろそろいいのではないかという気もする。13日の夜8時頃に決まるので、そのとき短いコメントを下さい、その後、明け方までに4枚程度の解説を、という話を受けはしたのだが、14日朝には日本スタインベック学会のために8時発の飛行機で札幌に向かう事になっていたのだ。

 結局、今年のノーベル文学賞受賞者は英国のハロルド・ピンターと決まり、私は解説書きに取り組まずにすんだ。『部屋』や『料理昇降機』など不条理劇の大家ピンターをここで紹介しようと思ったのだけれど、驚いたことに現在『ハロルド・ピンター全集』を含めて、ピンターの翻訳はほとんど絶版になっている。劇として上演はされているのだが、書物としては手に入らない。そこでアメリカの作家のなかから、常連候補者の一人であるジョン・アップダイクと、1993年に黒人女性作家として最初に賞を得たトニ・モリスンの作品を手掛かりに、小説を読むことをお勧めしよう。

 

* ジョン・アップダイク『走れウサギ』宮本陽吉訳、白水社、1984、(上)998円(下)893円.

   ――ウサギというあだ名の26歳の青年ハリー・アングストロームは閉塞した日常に納得がいかない。高校時代にはバスケットの選手で栄光に包まれていたのに、いまは定職もない。可憐だった妻ジャニスは崩れて酒浸りになっている。彼が別の女と情事にふけっている間に妻は生まれたばかりの赤ん坊を浴槽で溺れさせてしまっていた――

 アメリカ東部中産階級のごく平凡な青年が、平凡な日常のなかに、遠ざかっていく青春の足音を聞き、それでも遠くから自分の本質に呼びかける声に応えようとする、切ない青春の書。

 

* トニ・モリスン『ビラヴド』吉田廸子訳、集英社文庫、1998、905円

  ――まだアメリカ南部に奴隷制が敷かれていた19世紀半ば、オハイオ自由州に逃れて、「いま、こうして吸う空気さえ、生まれて初めて吸う自分自身の空気なんだ」「この自分自身さえ、いま初めて自分が所有する自分自身のものなんだ」と実感したセテは、奴隷捕獲人の姿を見たとき、かわいい子供たちを白人の手に渡すよりはと、幼い娘の喉に刃を当てたのだった。18年後、セテの家に不思議な娘が住み着く。死んだ赤ん坊の霊が大人になって帰ってきたのだ、と信じた事から、セテの日常は崩れていく――

口に出す事もできないような悲惨を、悲惨だからといって忘れたふりをしてしまってはいけない、死者への冒涜になる、抱いて宥めてやれない寂しさ、さ迷い歩く寂しさのなかに死者はいるのだと、モリスンは考える。

 

前者は平凡な日常、後者は特異な事件を扱って、人間の強靭さとその限界、個人を取り巻くコミュニテイや社会の圧倒的な力について読者を考えさせる。そして「こんな生きかたもあるんだ」という驚きと静かな決意を誘う作品である。

 

同じ14日、東京では河出書房新社が主催する2005年の文芸賞が青山七恵(22歳)三並夏(15歳)という、将来を期待される若い女性に贈られた。文学の低年齢化?という騒ぎとともに、問題は中高年の文学離れと、30代、40代がろくなものを書いてこないことだ、というシビアな批評もあった。