本を読むということ

田中 敏朗(学事部 部長)

 

 本を読む速度は、人によってまちまち。1行1行に線を引きながらまるで牛歩、いや牛読のごとくにゆっくり読む人、或いはまるでお金を数えるがごとくに凄いスピードで頁をめくる人、いろいろである。それでも遅いよりも、速い方が多くの本を読めることになるので、昔から速読法なるものがもてはやされている。昨今のものでは、一度に視力に捉えられる字数を訓練によって増加させれば、自ずと速くなるという方法もある。

 

さらに私の学生時代にあったものだが、睡眠読書法という驚くべきものもあった。人間は睡眠中でも脳神経は動いているので、枕の中のテープレコーダーで声を流すのである。そうすると寝ている間に、英単語等が記憶できるという極めて便利なものであったが、少なくとも私の周りではこれで英単語を憶えたという人はいなかった。受験雑誌には広告も出ていたので、それなりの効果があったのだろうが、私ならうるさくて熟睡できないだろう。

 

もう一つの速読法は、所謂斜め読みである。何も本を斜めにして読むことではないし、「新聞斜め読み」のように別の視点から読むことでもない。頁の右上から左下までを一瞥して、読まなければならない箇所だけ読むことで、全部読まなくても内容を理解することができるとする速読法である。この方法は、どこの部分が重要かを見抜けないと無駄な努力となる。芥川龍之介を始め、この斜め読みの達人とされている著名人も多いが、飛ばしてもよい箇所と読まなければならない箇所とを区別できるには、しっかりと読み込んだ読書量に裏打ちされていることを忘れてはならない。結局一番効果的な速読法とは、多くの本を読みこなして、自分なりの速度を上げるしかない。

 

また同じ人でも、分野によって遅い速いの違いもでる。文学作品なら速いが、哲学書だとかなり遅くなるのが一般的である。外国哲学の訳本は、翻訳からして難解である。僅か数行であっても、1回読んでちんぷんかんぷん、自分の日本語読解能力に疑問を感じつつ、2回目、3回目と挑戦しても余計混乱して、自己嫌悪に陥ってしまい、少しも前に進まない。ここで本を投げ出してしまうのが殆どの人であるが、中には理解しなくても読み通す忍耐強い人もいる。或いは同じ文章なのに、解釈が読んだ人によって違うものもある。哲学書は、全て読了して理解するのにこしたことはないが、例え1頁でも自分のものにすることである。

 

一方文学作品といっても、長編小説も手強い。作中人名がなかなか覚えられないのである。常に出てくる人物だと記憶しているが、久方振りに出てきた人物だと、はてこの人物は誰だったかいなと慌てて前の頁をめくるが、探し出すのに苦労する。思わず欄外に注くらいつけてほしいと思ってしまう。従って前に進んだり、後に戻ったりこれもなかなか前に進まない。また小説の場合、簡略本が出回っていて、短いかと思うと本当は長編であったというものもある。岩波文庫でみると、「千一夜物語」は全13冊、「紅楼夢」は全12冊、「南総里見八犬伝」は全10冊、トルストイの「戦争と平和」は全8冊である。「戦争と平和」なら全編読破した人も多いと思うが、前の3作では少ないはずである。いずれにせよ遅くとも、速くともまずは読むことである。読んでないと何も残りません。