『書を捨てよ』を考える

田中 亮平(文学部教授) 

 

『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの本がある。1967年に寺山修司という詩人・劇作家が書いた。劇団「天井桟敷」を主宰し、詩や評論も多く、当時の若者にはカリスマ的存在だった人だ。

 

この書物の刺激的なタイトルも広く知れ渡っていた。もともと評論集だが、のちに同じタイトルの戯曲や映画も作られている。私自身、この本をまともに読んだことがあったわけでもないのに、なにか本のことが話題になったり、考えたりするとき、かなり頻繁にこの言葉を思い出した一人だ。こうして図書館のサイトに載せるべき一文を考え始めたとたんに、またしてもこの文句が浮かんできてしまった。そこでこの際、妖怪のように何十年も私にまとわりついている正体不明の、しかしインパクトだけは強いこのタイトルを、ちゃんと考えてみようと思った次第である。

 

この本の終わりのほうでタイトルの意味が明かされるところがある。大学に入って病気になり、療養生活のあと快方に向かった頃、寺山は生きる「実感」をもとめて読書ざんまいの生活から遠ざかろうと思いはじめた。そしてそこには、それまでの豊富な読書体験から得たモデルがあった。それはアンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』で、「書を捨てよ、町へ出よう」とは、そこに出てくる言葉なのである。

 

しかし「書を捨てた」わりに、まさにその本の中に、古今の思想書や文学からの引用がふんだんに盛り込まれている。どうやら彼は「町へ出る」、つまり「生」の実感を求めて体験へ向かい始めた後でも、引き続き猛烈な読書家であり続けたようなのだ。「読書無用論」の擁護者を期待してこの本を開いた人は、裏切られた思いがするに違いない。

 

ところで体験を通じて生の実感をもとめ、こうした「書斎の知識」を去って巷に出て行くという発想自体は、ジッドに限らずそれほど新しいものではない。

 

たとえばゲーテの『ファウスト』である。この劇の本筋は、中世以来の大学で主要な四学問とされた法学・哲学・医学・神学のすべてに通暁した大博士ファウストが、昔よりちっとも利口になっていないことに絶望するところから始まる。彼の場合もそうした書斎の知識を去って、現実の体験、つまり「行為」の世界に、悪魔メフィストを従えて飛び込んでいくことになる。

 

ゲーテ、ジッド、寺山と、一見したところ彼らはみな、「反読書」「反書物」的なスローガンの持ち主、読書無用論の弁護者と思われかねない。事実はどうやらまったく逆で、実はいずれ劣らぬ大変な読書家のようなのだ。考えてみれば、言語によって創造的な仕事をなそうとする人々がそうでないと考える方が、むしろ不自然であろう。

 

したがって寺山の挑発的なタイトルも、ファウストのセリフも、制度化された知の体系を超え出て、生のリアリティーに根ざした認識や創造を目指す心構えを、文学的修辞を使って述べたものと見るべきだろう。そして、そのような認識や創造を成功させるためには、先人や他人の知識と知恵を前もって学んでおくことは不可欠の前提となろう。

 

結論として、「書を捨てる」のもいいが、その前に「書を読む」必要がある。あるいは「町へ出る」のもいいが、でたあとでも「書を読み続ける」必要が大いにある。寺山もジッドもゲーテも、実はその代表的実例を提供しているのではないだろうか。

 

人生の諸価値の大いなる創造者をめざす、わが創大生の皆さんも、旺盛な好奇心を燃やして書を読み、また体験を積んで、全人格的な成長をはかってもらいたいと思うのである。