学生時代に「古典」を!

                                                      勘坂純市(経済学部助教授)

 

 大学にいるうちに、とくに文系の学生は、少なくとも社会科学の「古典」を一冊は読んで
もらいたい。ここでいう古典とは、岩波文庫の白帯・青帯の本をイメージしてもらえばよい
だろう。学生時代に古典を読めば、第一に、一生で読む本のレベルが上がり、第二に、必ず
「頭がよくなる」。

 

まず、大学時代に読んだ本のレベルによって、その人が一生で読む本のレベルは決まるこ
とを知ってもらいたい。大学で専門書や古典を読む訓練をしっかりした人は、社会に出てか
らも時間を見つけて、そうした本を読み続けることができる。しかし、学生時代に漫画と通
俗雑誌しか読まなかった人は、一生、漫画と雑誌を読んで終わることになりかねない。専門
書や古典は、いわゆる「難しい本」である。最初は、読むのにえらく時間がかかる。私が大
学2年生ではじめて読んだ古典は、K.マンハイム『イデオロギーとユートピア』(高橋徹・徳
永恂訳、中央公論社. 岩波文庫には入っていないが古典といっていいだろう)だった。履修
した「教養演習」のテキストとして読んだが、とにかく、はじめは本当に苦労したことを覚
えている。本を読んで、そこで展開されている議論を自分の頭のなかに組み立てていくのだ
が、これがすぐに崩れてしまう。

「あれ?」と思って、またもどって読み返す。この繰り返しだった。5ページ進むのに3時
間以上かかることも稀ではなかった。しかし、読み続けた。「わからない」ともいわなかった。
余談になるが、当時、私がいた大学では、講義や本の内容について、友人たちに「すごく難
しい」とはいえても、「わからない」とは決していえない雰囲気があったように思う。「わか
らない」といった瞬間に“バカ”というレッテルが貼られたからだ。これは耐えられない。
だから、難しい本も「わかる」まで意地になって読んだ。

 

しかし、不思議なもので、一度このレベルの読書が身についてしまうと、2冊目、3冊目は
ウソのようにスムーズに読めるようになる。もちろん古典の一冊一冊は内容が深く、それぞ
れ腰をすえて読むのだが、本を読みながら頭のなかに組み立てていく論理が崩れる頻度は、
ずっと少なくなる。こうなれば、こうした「難しい本」も時間を見つけて読めるようになる。

社会にでて忙しくなっても読み続けることができようになるのだ。大学を卒業したあとも読
書の時間をつくることは、もちろんできる。しかし、「5ページ進むのに3時間以上かかる」
などという贅沢をしている余裕はもうない。だからこそ、こうしたトレーニングは、学生時
代にしておかなければならない。これを怠った人は、繰り返しになるが、一生、漫画と通俗
雑誌だけを読んで終ってしまうことになりかねない。

 

では、古典を読めばどうなるか。頭がよくなる。これは本当だ。よく、「頭がよくなるには
どうすればいいか?」と聞かれるが、答えは「頭がいい人が書いた文章を読む」ことに尽き
ると思う。古典を読んで難しいと感じるのは、筆者の論理的思考力、すなわち「頭のよさ」
に、読者の頭がついていっていないからだろう。だから、最初は本を読みながら読者が組み
立てる論理がすぐに崩れてしまう。これを克服するには、とにかく一度、自分の頭のなかに
古典で展開されている論理を丸ごと組み込む(インストールする)しかない。難しいと思い
ながら、古典の論理を追っていくのはこの作業に他ならない。これは、例えば、「イデオロギ
ー」といった「専門知識」を頭のなかにインプットしていく作業とは、まったく異なる。知
識を入れるのではなく、考え方をインストールするのだ。

 

面白いもので、同じ著者の古典を読み続けていくと、3冊目当たりから、世の中のすべて
が、その古典の論理でしか見られなくなってくる。考え方の組み込み(インストール)があ
る程度完了した証拠である。私も例えばマルクスを読んでいたときは、社会の事象のすべて
がマルクス的にしか見られなくなっていた。そうなると、別の著者の本に移ってもいいと思
う。私の場合は、先輩の勧めもあって、次にヴェーバーを読み始めた。『プロテスタンティズ
ムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波
文庫)と読み進め、やはり、3冊目の『宗教社会学論選』(大塚久雄・生松敬三訳、みすず書
房)を読んでいる頃には、社会の現実をもっぱらヴェーバー的に解釈している自分がいた。
ほぼ同じ頃に新古典派経済学(つまり、大学で普通に学ぶミクロ経済学)の勉強も進めてい
た。これも、特定の「古典」をあげることはできないが、明らかに一つの考え方を私の頭の
なかにインストールしたと思う。やはり、一時期には、すべて社会現象を新古典派経済学的
にしか解釈できないようになっていた。

 

このように、「古典」に集約される学問とは、一つの考え方の体系に他ならない。それを、
いくつか(できれば複数の方がいい)自分の頭のなかにインストールしておけば、社会を見
る眼は確実に磨かれる。静寂な図書館で古典に取り組む、そのトレーニングを大学時代に是
非ともしておいてもらいたい。

 

※ 学生時代の読書の進め方については、SCL第40号(1998年7月10日)でも書かせてい
ただいた。あわせて参照してもらいたい。
/Library/SCL1/SCL40-1.htm