私にとっての一書
藤本和子(ワールドランゲージセンター講師)
大学一年生の時に出会った一書。あの時感じた作品の力強さと衝撃の大きさは、いまでも
鮮明に記憶に残っている。へミングウェイの『老人と海』1)である。作者はこの作品を1952
年に世に出し、1954年にノーベル文学賞を受賞した。
老人の大海原における、三日間にわたる、不眠不休のまさに命をかけた魚との大格闘。そ
れは魚との闘いというよりもむしろ、老人の自分自身との闘いであったのかもしれない。体
力と精神力の極限をかけた闘いである。最初の相手は18フィートもあるマカジキである。そ
の大きさは、老人の乗る小さな帆船に対して非常に対照的である。身体全体にのしかかって
くる魚の重さと手ごわさに打ちのめされそうになりながら、それでも自分自身を鼓舞して闘
い続けるのである。格闘の中で老人は過去の誇りを思い返す。それは、苦難を乗り越えたか
つての体験を思い、それを新たな苦難を乗り越える励みとし、自身を勇気づけるためである。
ついに老人はマカジキを射止める。一瞬、訪れる安堵感と静けさ、ところが今度はマカジ
キを狙う鮫の襲撃である。新たな闘いの始まりである。マカジキの肉を食いちぎろうと次々
に鮫たちが襲ってくる。かつての敵であったマカジキは、今や、守るべき友なのである。(海
それ自体が老人にとって、ある時は敵であり、ある時は友といえるであろう。) 鮫と闘いな
がら老人は自分に向かって言う、". . . man is not made for defeat" (1982: 95)と。そし
て、"Think about something cheerful, old man" (96)と自らに言い聞かせるのである。常
に、事態はよい方向へ進んでいくと信じ、またそう自分に思い込ませようとつとめ、その時
自分にできる最善を尽くす。決してあきらめないのである。この強靭さには度肝をぬかれる。
しかし、老人はまた、人間というものが、強い面と同時に弱い面をも持ち合わせた存在で
あることを教えてくれる。弱い自分に勝つために、そして自分をさらに強くするために人は
闘うのであろう。そして、老人はさらに、強い者の優しく謙虚な面もみせてくれる。船の上
で老人は、日頃、自分を慕ってやってくる少年のことを思い、何度も、"I wish the boy was
here" (41) と繰り返すのである。また、空を飛ぶ鳥に、そして自分の傷ついた手に話しかけ
る。自分が目の当たりにしているものへの同情を惜しみなくあらわにするのである。
老人が強いだけの人間で、すべてやすやすとやり遂げてしまっていたら、これほどまでに
読み手の共感をひきつけることはなかったのではあるまいか。長い闘いが終わり、ようやく
老人は港にたどり着く。今や、マカジキは骨だけである。老人はくたびれた身体をベッドに
横たえ、深々と眠る。それは、闘いの後の極度の疲労感と満足感が誘う深い眠りであったこ
とだろう。老人はまた海へ出るのだろうか。きっと出るだろう。新たな挑戦を予期しながら
海へと船を漕ぎ出すことだろう。
老人は次のことに気づく、". . . how pleasant it was to have someone to talk to instead
of speaking only to himself and to the sea"
(116)。
ふと、読書においてもこのことは当てはまるのではないだろうかと思う。本を読んで、自
分の思うことを自由に語り合うことができる相手がいることは、いかに幸せなことであろう
か。互いに大きな触発を生むことだろう。フランシス・ベーコン2)もまた次のように述べて
いる、"Reading maketh a full man, conference a ready man, and writing
an exact man"
(1951: 111)。 読んで感じたことを自分の言葉、文字を用いて表現するということのいかに
大切で、すばらしいことか。
私自身、これから先もこれらの言葉を胸に書物に接していきたいと思う。どうか学生の皆
さんも、大いに良書にふれ、大いに思索し、大いに書物について語っていただきたいと思う。
人生においてかけがえのない何かをつかむことができるはずだから。
Notes
1) Hemingway, Earnest. 1982. The Old Man and the Sea. Tokyo: Yohan
Publications, Inc.
2) Bartlett, John. 1951. Familiar Quotations. Boston: Little,
Brown and Company.