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ヘーゲルの思想は難解で、もはや何を言いたいのか読んでいて理解に追いつきませんでしたが、「精神の発展こそが世界史そのものである」と主張しているように感じました。ヘーゲルは、人間の精神的な進歩は中国からスタートし、西ヨーロッパでゴールすると示唆しています。中国では皇帝に服従し、隷従することが社会的な秩序であるのに対し、ドイツやイギリスなどのヨーロッパでは、自分の考えを自由に発言することができるため、人類の精神が最も進歩したのは西欧であると主張していました。 本書は、序論、東洋史、西洋史の3部構成になっています。後半の世界史分野は、その当時の偏見が露骨に記述されているため、歴史的事実とはだいぶ食い違っているように思えました。 しかし、序論ではヘーゲル独自の思想体系を知ることができるため、哲学を勉強している方には本書をおすすめしたいと思います。
誰しも一度は「歴史とは一体なんであるのか」という疑問を抱いたことがあるだろう。それは、いまだ明確な答えの出ていない難解な問題である。なぜ、これだけ長い間この討論に幕が下ろされずにいるのか。それは、歴史というものの存在がひどく曖昧であるからで、その曖昧さを引き起こしているものは「時間」という概念である、と著者は言っている。 「歴史」に対して多角的な視点から考察を進めている本書を読むことで、今まで当たり前だと思っていたことに対して新たな視点を持つことがいかに重要であるか実感した。また、これから歴史学を学ぶ上でも、自分でもう一度「歴史の定義」について考え直さなくてはならないと感じた。
歴史哲学についてはあまり大きな印象を持ちませんでした。おそらく1年間アーノルドトインビーの「歴史の研究」に付き合っていたことが原因だと思います。ただトインビーもこの本を読んだのだろうと思います。しかし一番心に残ったのは「楽園は動物なら踏みとどまれるが、人間はそこに踏みとどまることができない。」トインビーの「豚の王国」の話をを思い出してしまうような文章です、今の世の中人間であることを捨て、いったい何人が動物になってしまっているのでしょうか。私は人間であると確信をもって言えますが、なぜか少数派のような気がします。
歴史を学んだことがない人はいないだろう。小中高で必ず習う科目だ。しかし、私たちはなぜ歴史を学ぶのだろうか。そもそも「歴史」とはなんだろうか。本書は、私たちが知っているような気になっている「歴史」の、本来の姿を教えてくれる一書である。 第一部では、そもそも歴史とはなにか。歴史がある文明とない文明があるのはどうしてかについて書かれている。まず著者は、本書の中で歴史をこう定義している。「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。」何だか非常にややこしいが、大事なポイントは二つ。歴史は「人間の住む世界」にしか存在しないということと、「一個人が直接体験できる範囲を超え」ることである。著者に言わせれば「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」などというものは、歴史の定義から言えば、歴史ではないのである。 私たちは過去にあった事実を「歴史」だと思っている。また、そうだからこそ学校でも教えているのだろう。しかし、著者はそうではないと主張する。歴史は科学ではない。科学は実験できて、証明できるが、歴史は証明することが出来ない。私たちはそのことをしっかり念頭に置き、歴史と向き合わなければならないのである。 第二部では、私たちと最もかかわりの深い「日本史」について書かれている。第一章「神話をどう扱うべきか」では、神話について、また古事記や日本書紀の正当性について言及している。評者がここで驚いたのは、神話を歴史だと思っている人がいるということだ。数年前に受験勉強の一環として歴史を学んだきり、すっかりご無沙汰になっていたので、歴史がどのように教えられていたのかは忘れてしまったが、評者は自然と神話のことはファンタジー、作り話だと理解していた。「日本史」として教えられながらも、自然と区別していたことには我ながら不思議である。しかし、それをファンタジーと受け取らない人がいることが、更に不思議に思えた。神話を歴史として認めないと、歴史は昔あったことの事実だということが成り立たない。しかし、評者以外にも神話を歴史だと思っていない人は多いだろう。ここで、私たちは歴史の矛盾に気付くことができる。 また、いわゆる教科書問題につながる記述もある。なぜ隣国と主張がぶつかってしまうのか。その理由は、結局歴史というものは、自国の正当性を主張するものだからである。だから、お互いが歴史に対する姿勢を改めなければ、どこまで行ってもぶつかり続ける。著者は自分の都合の良いように解釈する歴史を「悪い歴史」、客観的に出来事の事実を述べているのを「良い歴史」と呼んでいる。「悪い歴史」をひっぱり出して主張するのではなく、「良い歴史」に基づいて判断するという冷静さを、世界中の国、また人々が持つことが出来たら、今ある多くの争いは緩和されるだろう。 第三部では、現代史のとらえ方について書かれている。現代の歴史に関する考え方は、マルクス史観の悪影響を大変受けている。マルクス史観では、歴史は段階を経て成長して行くと考えている。しかし、著者はそれを否定し、歴史は二分法、今か昔しかないと主張している。 著者は、結びで「良い歴史」の効用について述べている。歴史家は、史料を元に歴史を組み立てる。しかし、史料を書いた人々も私たちに事実を伝えるために書いたわけではないので、都合の良いことしか書かれていない。しかし、そんな中でもどれだけ客観的な立場に自分を置き、正しい事実を伝えていけるか。それが歴史家の腕の見せ所なのである。また、これは一般の私たちにも言えることである。著者が述べているように「良い歴史」は、その性格故に嫌われる可能性が高い。しかし、「良い歴史」を持つことが世界の様々な問題の解決の糸口になるということに私たちは気付かなければならない。本書はそのことを教えてくれるのである。
この本はトインビーについて述べられた著書である。構成としては、序説、歴史と宗教、文化と宗教、進歩と宗教、神と愛、神と愛、人類の未来となっている。これをみても分かるように、この本はトインビーという人物の全体に触れながら、彼の宗教史観を中心に据えて話を展開している。また、各テーマごとのキーワードをうまく使っており、彼の史観について整理が容易で理解しやすい。全体的には、そこまで難解ではなく読みやすい。トインビーを少し知ってはいたが、もっと深めたかった私にとっては難しすぎず、かつ詳細に彼の史観について理解を深めることができ良かったと思う。
卒論の息抜きに読んだ本・パート2。史料批判と解釈とは何か。また歴史書と歴史小説はどのような点において異なるのか。さらにまた、歴史学は社会的有用性を持っているのか。そして歴史学の研究成果は、中学や高校の歴史教科書にどのように反映されているのか。こういった事柄について、歴史学を専攻していない人たちに平明に説明したのが本書である。 本書は、歴史学を初めて学ぶ人にとっては新しい発見があると思われるが、すでに専門的に勉強している人にとってはどこか物足りなさが残るのではないだろうか。本書を繰り返し何度も読むよりも、巻末の「推薦文献リスト」にあるE・H・カーやリュシアン・フェーブルの本に進むべきであろう。
本書は、日本人にして初めてアメリカ歴史学会の会長になった入江昭氏が、自らの学究生活の遍歴と歴史を学ぶことの意義について書いたものである。さまざまな人との出会いが自分にどのような影響を与え、また世界の動きが著者の問題意識をどのように揺さぶってきたのか、といったことが簡潔に描かれている。入江氏の経歴を追うことによって、読者は学問に取り組む心構えを学べる。また、「地域主義と多角主義の共存の可否」や「歴史学の国際化」といった今日の重要な問題群の一端も垣間見せてくれる。 余談になるけれども、著者の尊父・入江啓四郎氏は、時事通信社の記者を経た後、大学教員となり、本学でも一時教鞭をとられていた。
著者は「現在の眼を通して出なければ、私たちは過去を眺める事もできない、過去の理解に成功する事もできない」と述べています。この本を読み、今すぐ受動的に歴史家の書く歴史書を読んでいたことを省みるべきだなと感じました
本書は西洋中世史研究の大家・堀米氏によってかかれたもので、人生を意味づけていく上で歴史はどのような役割を果たすのか、歴史における主観性と客観性とは等々、初歩的な話からかなりつっこんだ内容まで扱っております。『世界の歴史3』でもみられるように、わかりやすく、かつ本質にふれる堀米氏の文章には魅せられるものがあります。
私がこの本を読んだきっかけが「何のために大学で学んでいるのかわからない」と先生に相談したところ、おすすめされた本です。読みにくくはないので読んでみてください。