歴史を学んだことがない人はいないだろう。小中高で必ず習う科目だ。しかし、私たちはなぜ歴史を学ぶのだろうか。そもそも「歴史」とはなんだろうか。本書は、私たちが知っているような気になっている「歴史」の、本来の姿を教えてくれる一書である。 第一部では、そもそも歴史とはなにか。歴史がある文明とない文明があるのはどうしてかについて書かれている。まず著者は、本書の中で歴史をこう定義している。「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。」何だか非常にややこしいが、大事なポイントは二つ。歴史は「人間の住む世界」にしか存在しないということと、「一個人が直接体験できる範囲を超え」ることである。著者に言わせれば「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」などというものは、歴史の定義から言えば、歴史ではないのである。 私たちは過去にあった事実を「歴史」だと思っている。また、そうだからこそ学校でも教えているのだろう。しかし、著者はそうではないと主張する。歴史は科学ではない。科学は実験できて、証明できるが、歴史は証明することが出来ない。私たちはそのことをしっかり念頭に置き、歴史と向き合わなければならないのである。 第二部では、私たちと最もかかわりの深い「日本史」について書かれている。第一章「神話をどう扱うべきか」では、神話について、また古事記や日本書紀の正当性について言及している。評者がここで驚いたのは、神話を歴史だと思っている人がいるということだ。数年前に受験勉強の一環として歴史を学んだきり、すっかりご無沙汰になっていたので、歴史がどのように教えられていたのかは忘れてしまったが、評者は自然と神話のことはファンタジー、作り話だと理解していた。「日本史」として教えられながらも、自然と区別していたことには我ながら不思議である。しかし、それをファンタジーと受け取らない人がいることが、更に不思議に思えた。神話を歴史として認めないと、歴史は昔あったことの事実だということが成り立たない。しかし、評者以外にも神話を歴史だと思っていない人は多いだろう。ここで、私たちは歴史の矛盾に気付くことができる。 また、いわゆる教科書問題につながる記述もある。なぜ隣国と主張がぶつかってしまうのか。その理由は、結局歴史というものは、自国の正当性を主張するものだからである。だから、お互いが歴史に対する姿勢を改めなければ、どこまで行ってもぶつかり続ける。著者は自分の都合の良いように解釈する歴史を「悪い歴史」、客観的に出来事の事実を述べているのを「良い歴史」と呼んでいる。「悪い歴史」をひっぱり出して主張するのではなく、「良い歴史」に基づいて判断するという冷静さを、世界中の国、また人々が持つことが出来たら、今ある多くの争いは緩和されるだろう。 第三部では、現代史のとらえ方について書かれている。現代の歴史に関する考え方は、マルクス史観の悪影響を大変受けている。マルクス史観では、歴史は段階を経て成長して行くと考えている。しかし、著者はそれを否定し、歴史は二分法、今か昔しかないと主張している。 著者は、結びで「良い歴史」の効用について述べている。歴史家は、史料を元に歴史を組み立てる。しかし、史料を書いた人々も私たちに事実を伝えるために書いたわけではないので、都合の良いことしか書かれていない。しかし、そんな中でもどれだけ客観的な立場に自分を置き、正しい事実を伝えていけるか。それが歴史家の腕の見せ所なのである。また、これは一般の私たちにも言えることである。著者が述べているように「良い歴史」は、その性格故に嫌われる可能性が高い。しかし、「良い歴史」を持つことが世界の様々な問題の解決の糸口になるということに私たちは気付かなければならない。本書はそのことを教えてくれるのである。
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