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『赤毛のアン』は、時を超え世界中で読み継がれる言わずと知れた名作だ。孤児院で育ったアンは、どんな不幸のなかにいようとも、持ち前の想像力で世界を彩って前向きに生きてきた。すぐ空想にふけってしまい、話し始めたら止まらないアンを、人々は「変わった子」と見て煙たがる。そんな彼らも、だんだんとアンの不思議な魅力に惹きつけられ、彼女を好きになっていく。私は『赤毛のアン』に詰め込まれた「とっておき」に溢れる毎日が大好きだ。部屋の窓から見える、グリーン・ゲイブルズの緑豊かな景色、優しくそよぐ風に温かく降り注ぐ太陽、マリラが作るあんずの砂糖漬け、そんなアンの「とっておき」に胸が高鳴る。自分の見た目や性格に劣等感を抱え、何度も失敗しては落ち込んでしまうけれど、少女はときめく心を忘れずに、少しずつ成長していく。家族や友達を大切に、かけがえのない一日の喜びを愛し、素直な心のまま生きていきたいと思える、そんな一冊であった。
著者は、美術と西洋史をかけ合わせた著作を多く世の中に出している。本作では、絵画に登場する人々の職業に注目している。現代においては馴染みのない仕事から、今も残る仕事まで多様な職業を通して、その国の歴史的背景や登場人物の苦悩、歩みに迫る事ができる。美術や西洋史に少しでも興味がある人にとって、幅広く知識を得られ、興味のある時代や人物を見つける一助となるであろう。
本書は、黒柳徹子さんが自身の失敗談を綴った回顧録である。徹子さんは、自身を「欠落人間」と称しており、失敗ばかりしている人生だと振り返る。徹子さんが大真面目に勘違いし、周りを混乱させたやらかしが幾度も展開される。そのエピソードがどれも可笑しくて、終始ニヤつきながら読んでしまう。自分だったら、顔から火が出るほど恥ずかしくて思い出したくもないであろう失敗談を、徹子さんは陽気にチャーミングに語る。欠落エピソードをも笑い話として一冊の本にまで仕立ててしまう、徹子さんの明るく前向きなお人柄が感じられた。どんな欠落も笑って受け止めて、周りを笑わし明るくすることができると思えば、それは儲けもんである。本書は、欠落帳に書くことができるのだから、どんな失敗もやらかしも恐くないと気づかせてくれた。ハッピーでハートフルに、欠落を謳歌する笑い話を、心ゆくまま楽しめる一冊である。
交通事故で両親を亡くし、実家の「てしおや」という定食屋を主人公哲史の妹の志穂が継ぐことになったが、一人でできるわけなく志穂はお兄ちゃんの哲史に手伝ってほしいと頼んだ。兄は就職していたのだが、妹のために、と1年間限定で会社を休職し手伝うことにした。しかし、哲史は料理経験がなく、志穂に怒られてばかりであった。そんな時、哲史は近くの神社にどうしたらいいのか、と「~ができるようになりたい。」と神様にお願いするのである。するとなんと神様が現れ、成仏できていない魂をよびよせて、哲史に憑依させ、魂を通して、哲史は料理が成長していく。そんな中、お店がネットで炎上してしまい、神様にお願いし、両親を兄妹の体に憑依させ、無事に解決するのである。ここのシーンが私は一番心に残った。別れ際はやはりつらく、もっと一緒にいたい、というふうな気持ちになっていくのである。そんな中、消える前に父が子供に言った、「お疲れ様、哲史、志穂。ありがとな」というワンフレーズで泣いてしまった。頑張れよではなくて、ありがとうと感謝の言葉をかけていて、心がじんわりなった。やっぱり、ありがとうはどんな時に言われても刺さるなと。自分もこの本を読んでからは、ありがとうをちゃんと言うようになった。この本と出合わせてくれてありがとう。
るきさんは、ゆるりふわりと軽やかに日常を踊っているようなアラサー女性だ。その友達のエッちゃんは、るきさんと違ってファッションや健康に敏感な、てきぱきとしたしっかり者。正反対な2人だが、お互いが互いの良き理解者で、足りないピースを埋め合う姿は、まさに理想の友人関係である。大人だけど子どものような2人が過ごす日常の一コマ一コマには、思わずくすりと笑ってしまう。『るきさん』は、一見すると何の変哲もないようで、毎日同じように思える日々が、実はささやかな愉快さに彩られていることを気づかせてくれる。深く考えすぎて何かと疲れがちな頑張る人々の心を、ぽっと暖め、潤す。まるで、陽だまりであり、同時に木陰でもあるような一冊である。
本書は、著者がロシアの大学で過ごした日々を、ロシア文学の詩や一節を織り交ぜながら、瑞々しくも感傷豊かに描き出す。かけがえのない大学生活の記憶と、内戦や宗教がもたらす深刻な亀裂が共に記されることで、そこに美しくも切ないノスタルジーが漂う。そして、ロシアの「今」へと連なる暗雲の歩みを、日本という異国に生きる私たちに伝えかける。ロシア文学に馴染みがなくとも、その奥深い魅力に引き込まれ、見たことない世界へと連れ出される一冊だ。
本書は、著者が祖母から教わった編み物の極意と、世界中の編み物を担ってきた女性たちの歴史を、自身の体験と共に綴ったエッセイだ。 夫の裏切りにより人生の岐路に立たされた著者。彼女を救ったのは、祖母の言葉や周囲の人の支え、そして「編み物」と向き合う時間であった。 人生の間違いは、そのまま編み進めても直せるものなのか、それとも一度ほどき再び編み直す必要があるのか、私たちは判断し解決しなければならない。さもなければ、間違えた部分が目立ち、放置すればするほど、ほどかなければならない部分が増えてしまう。優れた編み手は、大きな間違いを犯しても、自分の作業をほどき修復する勇気を持つのだ。著者は、「針と糸が手の中にあり、後戻りしたり、やり直す勇気が心にありさえすれば、何だって直すことができるのだ」という。 本書は、「編み物とは人生そのものである」というメッセージを読者に届け、勇気を与える。読後、新たな人生観が芽生えるであろう一冊だ。
本書は、映画や小説などにおける「会話」に焦点を当て、演出家である著者の視点から分析したものである。 ジェンダー論的観点からの男女の言葉の比較や一人ゼリフの効果など様々な角度から日本語の会話について述べられているが、私は特に方言についての章が興味深いと感じた。「方言では文章を書けない」という指摘があったが、最初はどういうことか分からなかった。しかし読み進めていくうちに、方言で書かれた文章は全て「括弧」で括られる会話や口頭で語られるものであり、地の文は方言では書き表せないということが分かり深く納得することができた。「誰かが話したこと」を前提としている点で、物語における語り手の存在について改めて考えを巡らせることができたように思う。また、方言で脚本が書かれた作品は、脚本家がその方言の話者でないことも多いといい(広島弁の「仁義なき戦い」等)、自分が意のままに使いこなしていない言葉であるにもかかわらず、多くの人が目にする作品を作る脚本家の苦労が偲ばれた。 総じて、本書を通して、口頭でのコミュニケーションを文字として読んでみることで、方言然りジェンダー論然り、話したり聞いたりしているだけでは意識されない点にも意識を向けることができることに気づいた。
本書は、中学時代の同級生である「真緒」と10年ぶりに再会した「僕」を描いた恋愛小説である。 甘いラブストーリーが続いているかと思えば、真緒が抱えるある秘密が見え隠れするたびに、二人の未来はどうなるのだろうとハラハラして目が離せなかった。真緒の天真爛漫で気まぐれで愛される性格が前半で全面に押し出されていた分、後半で秘密が明らかになる緊張感が強まっていると感じた。そのほっこりする甘さと緊張と最後のクスッとする緩和のバランスによって、本書には単なる恋愛小説に留まらない魅力があるように思った。 また、本作中には真緒が「素敵じゃないか」(ザ・ビーチ・ボーイズ)を鼻歌で歌う場面が複数あり、この曲の明るい曲調が現されている。真緒が好きだというこの曲の描写を通して、作中に全体的に明るくて温かい、正に「陽だまり」の雰囲気が増しているように感じた。
「夢」というたった一文字には、いくつか異なる意味がある。寝るときに見るもの、いつかそうなれたらと馳せるもの、ただの空想。知らないだけで本当はもっとあるのかも。子どもの頃のお祭りで買ってもらった綿あめみたいにふわふわとしている。食べ終わると手がベタついてるんだよなあ。 夢が儚いのは、儚いという字に夢が入っているのはどうしてだろう。近づくと消えてしまったりきれいに見えなくなってしまったりするのはどうしてだろう。それでも夢がほしいと思うのはどうしてだろう。 大人になっていくにつれてひとつ、またひとつと甘さを失っていくのを感じる。ひきかえに記憶の中の綿あめはどんどん大きくふわふわになっていく。 この本に収められている、うたたちと微睡んでいると手のベタつきや口の中の苦みは、もう大人になってしまったわたしへの攻撃ではなくなる。 何かを失ったって、代わりに手に入れたものもある。そして今のわたしにとってはただのベタつきにも、未来のわたしは「でも甘かったなあ。」って言うかも。 ネクライトーキーというバンドの「さかなぐらし」が今、脳内で再生されている。「こんなものは僕には要らないな。そうやって捨ててきた色々がなぜか今更になって恋しいんだ。」