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コミュニケーションで起こる齟齬の原因が、「伝え方」ではなく「捉え方」にあることを示してくれる一冊です。人が話を聞くとき、いかにバイアスに基づいた取捨選択を行っているか、人の記憶力を頼りにすることがどれほど危険かがよくわかりました。私自身、たしかに自分が話すときの集中力と話を聞くときの集中力に差があることは感じていたので、この本を読んですっきりしました。あらゆる人間関係を築くうえで意識すべき大切なことが書かれています。
金原ひとみ節が炸裂する本作は、とにかく文圧が凄まじい。迫りくるような憎悪や人間の醜悪さに息を呑まざるを得ず、行間を埋め尽くす緊張感に窒息してしまいそうになるほど圧倒される。 本作は、現代の日本社会に生きる、ごく普通の中年男性やその部下の男性らに、唐突に突きつけられた性告発やSNSでの暴露をめぐり、立場や年齢が様々な男女がそれぞれの主張や彼らの視点から捉えた世界を語る話だ。 まだ社会に出ておらず、人の汚れを直に浴びたことのない私からすると、この小説で全うに共感できる人物は一人もいなかった。それぐらい登場人物の人物像や内面が、生半可な感情移入ができないほど、鮮明かつ繊細に炙り出されているのだ。それはまるでツイッターのクソコメや無秩序で乱雑な世界を見ているようであった。 また、現実社会や実際に起きている性加害問題をリアルに描写した本作を読むと、どっちが加害者で、どっちが被害者なのか、何が嘘で何が本当か、誰を何を信じればいいのかなど、複雑な人間同士が共に生きていく難しさを考えさせられる。私はこれまで、どっちも嘘をついていないのに主張が食い違うという現象に、どちらかが嘘をついているのだろうとしか思えなかった。しかし、本作が描くように、人はあまりにも見ている世界が違い、どこまでも自分主観でしか相手の気持ちを捉えられず、見たいものしか見ていないというのなら、どちらも本当のことを言っていても話が食い違う可能性もあるように思えた。 同じことを経験しているのに全く異なる記憶の筋書き、ぞっとするほどの思い込みや自惚れとそれに気づけていない怖さは、非常なリアリティーを伴う。そんな分かり合えない世界で生きる苦しさを、共にサバイブしてこうという作者のメッセージを感じる一冊である。
本書は、言語に関する学者でもあり教授でもある著者によって書かれた、日本語に関するエッセイである。刊行されたのが古い年代ということもあり著者の言っていることにすべて理解はできなかったが、徐々に広がってきている過剰敬語に対して例を用いてその危うさを述べていたのは学びになった。本学のあいさつの特徴として昼夜問わず「お疲れ様」を投げかけているが、著者によるとその言葉は、ときに相手を不快にする可能性があると述べていたので注意しようと思った。
これが、私の、復讐。私を見下したすべての男と、そして女への――。 一人の美しい大学生の女と、その恋人の指揮者の男。そして彼女の醜い女友達。彼らは親密になるほどに、肥大した自意識に縛られ、嫉妬に狂わされていく。そう、女の美醜は女が決めるから――。恋に堕ちる愚かさと、恋から拒絶される屈辱感を、息苦しいまでに突きつける。醜さゆえ、美しさゆえの劣等感をあぶり出した、鬼気迫る書下し長編である。 印象的だったのは、タイトルの通り、この物語では「恋」と「友情」がどちらも“盲目”になるということだ。恋をするとき、友情を求めるとき、人はどうしても自分の都合の良いように相手を見てしまう。 作中の「他人の恋も友情も、その内側に入らなければ分からない」という文章は、まさに人間関係の本質を突いているように感じた。 “好き”という気持ちがどれほど純粋であっても、少し向きが変わるだけで誰かを傷つけ、自分を見失ってしまう。その怖さと、どうしようもない切なさが、この作品の魅力だと思った。 読み終えたとき、友情と恋愛はどちらもきれいごとだけでは成り立たないのだと、改めて感じさせられた。好きという気持ちが強すぎるほど、人は相手を求めすぎたり、自分の弱さを隠すために相手に頼りすぎてしまう。そんな生々しさに共感しつつ、どこか胸がざわつくような読後感が残った。 自分も同じような脆さや寂しさがあるのかもしれないと思わされる物語だった。
小説や評論など本を読むことについて、また自分自身についての考察が、わかりやすい言葉で文章化されている。自己の意識や知識、小説や評論の構造を関連させながら論じられる本の読み解き方は、読書と共に生きていくうえでタメになる知恵であった。そのなかでも特に印象に残ったのは、話の内容を「〜が…になる物語」または「〜が…する物語」に変換することで、要点を理解しやすくなるという読書術だ。また、評論は「ふつう」を前提に「ふつうではない」ことが主張されるので、評論を読むコツは、あえてバカの振りをして、みんなが思う「ふつう」の位置から読むことだと知りとても興味深かった。このように筆者が提示する読書術は、実際に活用してみたいと思うものばかりで、読み方がわかるだけでなく、本を読むモチベーションを高めてくれる。何度も読み返し、理解を深め、こうした技を体得していきたいと思う一冊であった。
知能を高める手術を受けた知的障害者のチャーリイと白ねずみのアルジャーノンを中心に、チャーリイの経過報告書という形で物語が展開される。語り手がチャーリイ自身なので、文体の変化でチャーリイが現在どれほどの知能を得ているのかが分かり、チャーリイの思考や感情がストレートに伝わってきた。特に、チャーリイは純粋な気持ちで知能が高まることを望んでいたはずなのに、実際に物事が分かるようになり、過去の思い出したくない記憶を思い出してしまったり、憎しみや怒りなどの負の感情さえも知ってしまったりして動揺している姿を心苦しく思った。 また、手術直後の経過報告には「もしおまえの頭が良くなったら話す友だちがたくさんできるからおまえわもうずーとひとりぼちじゃなくなるんだよ。」(原文ママ)と書いていたが、知能が高まったチャーリイは「孤独は読んだり考えたりする時間を与えてくれる」と述べている。「ひとりぼち」と孤独の捉え方が対照的だったことがチャーリイの変化を象徴していると思った。 アルジャーノンの行動の変化を見て、自分自身にも同じことが起こりうると考えるのはチャーリイにとって恐ろしいことだったと思う。チャーリイにとって同じ手術を受けた唯一の存在であり、特別な思いを抱いていたアルジャーノンを失った失望は計り知れないが、日に日に知能が失われていく恐怖と戦いながら、最後までアルジャーノンへの想いは忘れなかったことが深く心に響いた。
授業の教科書として読破。アメリカの政治の第一線で活躍したジョセフ・ナイ・ジュニア氏による、国際政治の解説。リアリスト・リベラリスト・コンストラクティヴィストの3つの視点を中心に、国際政治の今後を問う。私はリアリスト=保守、リベラリスト=革新派、というざっくりとした認識しかもっていなかったが、それはあくまで傾向であることがわかった。今後の国際政治を考えるためには3つの視点のすべてを理解することが重要であるという結論は、今後も国際関係に目を向けつつ、様々な立場から出来事を俯瞰する重要性について改めて考えさせされた。ただ、この書籍が完全に派遣国家としてのアメリカの視点で書かれていることには留意が必要である。
物語は、主人公・ツキコが行きつけの居酒屋で、かつての高校教師である「センセイ」と偶然再会するところから始まる。大人になった生徒と、年老いた元教師という、どこか少し不器用な二人の関係は、季節の移ろいと共にゆっくりと近づいていく。特別な出来事が起こるわけではない。酒を酌み交わし、くだらない話をし、時に小さな旅に出る。その何気ない時間こそが、二人の距離をひっそりと変えていくのだ。 読み進めるなかで印象的だったのは、「恋愛」という言葉では収まりきらない二人の関係性だ。ツキコは自分の弱さをそのまま受け入れてくれるセンセイに安心を覚え、センセイはツキコの無邪気さにどこか救われている。そんな曖昧だけど確かなつながりがある、それが、この作品の魅力だと感じた。 作中には、言葉にならない「孤独」と「寄り添い」が常に流れている。人は、他人から見えない場所で寂しさを抱えながら生きている。それでも、そばに一人でも“自分のままでいていい相手”がいるだけで、世界は少しやわらかく見えるのだと思った。 何でもない時間の尊さや、人との距離感のあたたかさについて静かに考えさせられた。 まるで、ゆっくりと流れる川を見ていたような、柔らかな余韻が心に残る作品だった。
『夜に星を放つ』は、喪失と再生をテーマにした窪美澄の短編集で、第167回直木賞受賞作である。人との別れや孤独を抱えた登場人物たちが、再び誰かと心を通わせることができるのかを問いかけられる物語である。 「人は、何度も人間関係に傷つく。しかし、再び誰かとつながり、誰かと心を通わせ、前に進む。」 この一文は、短編集全体のテーマを凝縮していて、胸に深く響いた。喪失の痛みを抱えながらも、人はまた誰かと関わり、未来へ歩み出すのだという希望が込められていると感じた。 これからも、たくさんの人と出会い、別れを大切にしていき豊かな人生を築いて行きたい。
本書は、多文化共生社会という目標とその背景について、文字通りのテキストブックとして学べる一冊である。全4部構成になっており、それぞれグローバリゼーション、多文化社会、グローバル社会、多文化共生社会について、多角的な視点を与えてくれる。各チャプターにて、授業で使えるような課題が用意されており、クイズ的なものからグループワークまで、専門知識がなくとも自分の経験から社会を見る目を養える内容になっている。 個人的に興味深かったのは、日本文化の不可視状態を指摘している部分である。日本に暮らしていると、日本文化に浸かりきっている状態のため、何が日本的文化なのかわからなくなってしまう。著者の松尾氏は「日本人であることが、人間であることと同じ意味で語られ、あたかもすべてであり普遍であるかのようにみなされる」と表現している。そのような日本社会で、“外国人”として生きる人たちはどんな思いをしているのか、日本人である私にはもはや想像することしかできない。海外留学していたときでさえ、移民だらけの異国では“外国人”である実感もあまり湧かなかった。しかし、考えないことには理解もできない。本書で学んだ視点から社会や時事問題を見る癖をつけておきたい。